昭和五十七年十月一日 朝の御理解
御理解第三十七節 「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」
金光教の修行観と申しましょうか、この位見事に言い表わしておられるみ教えはないと思いますね。「一生が修行じゃ」とおっしゃっておられる。しかも、ただ一生が修行というだけでなくて、それは「丁度学者が年をとって眼鏡をかけてでも本を読むようなものであろうぞい」と。修行というものを身についていく学業という学の徳というか、ね。学者がいよいよ知識を豊富にしていくということが楽しみといったようなものを感じますね。ああ、こげん年とってから、目はこんなに薄うなってから本ば読まんならんといったようなものは感じません。お道の修行感はそうです、一生が修行ですね。しかもそれが楽しうなる。勿論有難くなる。
昨日、御礼信話会でございましたから、皆さんの本当にもう、いよいよ十五年祭を間近にしての、御信心ですから、一段と昨日は皆さんの発表、一人一人の発表の中から、おかげを頂いたんですけれども。善導寺の原さんが発表してましたが、この頃修行させてもらうという。共励会に出られたり、教会でいろんな御用とか、それが楽しゅうて、楽しゅうてというような日々の、もう修行を感じません。言うなら苦労を感じないとこう。だから苦労を感じないことはないでしょうけども、その苦労以上の有難いものを頂いておられる。
もし私、御道の信心させて頂いておる者が修行を感じないならば、もうそれは修行じゃないと思うですね。皆さんこうやって朝参りの修行なさっておられる。それは確かにもう、ある意味あいではもう習慣のようになったり、もう当たり前のように、朝参りは当たり前というふうになっとられるけども、やはりそこに修行というものが、修行させて頂いておるというものがあって、その修行が、手応えがあるからね。修行であり、又修行そのものが楽しいものであり、有難いのである。
ですからその修行を、たとえば、「ああ、もうやれやれ」ともう御無礼する事になりますと、もうガタガタと、まあ崩れるようなものを感じられるだろうと思います。修行、これだけは自分の修行と、こう貫いておられるところに修行があり、しかもその修行はいよいよ信心の徳が身についていく楽しみ、喜びというものがね私は金光教の修行だと思いますよ。
確かにこれは、死ぬるまででしょうね。一生でしょうね。でなからなければ、御道の言うなら修行とは言えない。修行と言えば、きつい事、苦しい事、とても人間業では出来ないといったようなものではなくても、言うなら「学者が年をとっても、眼鏡をかけてでも本を読むようなものであろうぞい」と言われるような内容が信心には、いよいよ信心修行には必要というよりも、そういうような信心修行に育っていかなければならないと思うね。
もう修行がきつうなったんであったらもうおしまいです。もうあなたの信心はおしまいですということになるんです。きついです。きついけれども有難い、楽しい。原さんじゃないけれども、楽しゅうして、楽しゅうしてと、なら身に徳がついていっておることを感ずるから有難い、楽しいのです。
昨日、梶原先生がいろいろ発表した中に、何を、どこをめざして修行させて頂くかとね。合楽で言われる、「天衣無縫のおかげ」ということを言っております。それは合楽で頂いておる、合楽で表れておるおかげを天衣無縫だと見ているわけです。必要なものが必要に応じて、大きければ大きいい、小さければ小さいなりに、その、ぴったり合っていくと。大きいものだけが頂けるのじゃない。小さいものの時にはそれが小さく、大きいものの時には大きく、もう変幻自在というかね。天衣無縫というのはそういう意味だと思うんですけども、そういうおかげが合楽に表れておる。
そういうおかげを頂ける徳を、力を頂きたいね。だから大きいことばかりじゃないね。小さいことの中にも、それこそ水も洩らさん信心させてもらわなきゃならん。また大きいというたらね、大海にはクジラが住もうがと言われる。まあクジラの住むような、大海のような信心をさせてもらわなんならんというお知らせを頂いて、そういう信心に精進させて頂いておる。という話を致しておりました。
最後に紀久男先生が発表しておりましたが、先月はもういよいよ記念祭を前にした月ですから、もう一段とお取次を頂いて、本気で修行に打ち込ましてもらおう。いよいよ、いわゆる和楽路ばきの信心修行に取り組みたいという、お届けがあっておりました。一生懸命という事ですね。
合楽、金光教で言う信心の修行というのは、目指すというところが和賀心でありね。いわゆる、和楽の道なんです。なぜ和楽になってくるかと言うと。天衣無縫のおかげが約束される。人間の幸福の条件が足ろうてくるというような、いわゆるそのおかげね、だからそれを目指すためには、まず、なら和楽路ばきの信心。ただそれを知っとるだけじゃいかん。本気で一生懸命にその修行に取り組んで初めて、和楽の路がはっきりしてくる。成程修行なんだ、修行だけれどもね。和楽路ばき。和楽路とは、和楽の路と書いてある。御理解に頂くとね、その和楽の路を頂く。人間の幸福の条件が、こうすべて足ろうてくるといったようなおかげの世界こそ、これは和楽の路である。
昨日繁雄さんの発表の中に、そういうことを言っておられますね。我情我欲で極楽行きをしようと言ったって極楽行きは出来ません。合楽に住む…は出来ないという話をしておられますね。自分の我情我欲で、なら貯めた財産、それで極楽しようと思うても、神様が極楽を許しなさらんという意味のね、お話をしておられます。すばらしいお話でした。
ですから結局、和楽の道なんです。その和楽のおかげを頂くためにはね、和楽路ばきという、いわゆる一生懸命の、言うならば、一生命を懸けるというのですね。一生懸命というのは、いわゆる一生が修行じゃ、その命を懸けての修行そのものは、もう楽しゅうなってくるのであり、有難うなってくるのでありね。
そこに言わば身についてくる徳というかね、本当にやっぱり、手応えのある修行じやなからなだめですね。それがやっぱ、おかげ、おかげと言う間は手応えがないです。おかげを受けた時には手応えんごたるばってん、苦しくなるともう手応えじゃない。「これほど信心するのに」といったようなものになってきておる。
どうでも信心のね、ひとつ、真の力が身についていく、また、そうでなかったら修行の値打ちはないですよね。「ほりゃとても、金光様の信心ちは、朝早よから起きて毎日毎日。とても私どんじゃ出来ん」と信心のない者は、そう言うますけれども、その修行に本気で取り組んでおる者は、もうそれが有難いのである。身についていっておる。はあ、こればもらわんなんけん。こればお伺いせんなんけんで参るのだったら、もうじゅつのうして、じゅつなか。そりやもう修行じゃなくて苦労なんだ。
修行というからには、もうその修行ですやっぱりね。行を修めていくということなんです。それが自分にも手応えが感ずる。自分の心の中にもです。段々言うならば有難い心の状態は育っていく。成程これなら一生この修行が続いてもいよいよ有難い。いよいよ有難いことになってくるんです。
私は、合楽に御神縁を頂かれたら、その、まあ梶原先生じゃないけれども、合楽のおかげの焦点というかね、または信心の焦点というかね、折角信心させてもらうなら、信心の徳を受けたい、力を受けたい。そして合楽で表わされておるようなおかげの世界にも住みたい。焦点をぴしっとそこに置かないかん。これば一つもらえやええ、もうこれいっちょ成就すりやええといったようなもんじゃいかんですね。
本当にその梶原先生の話を聞いて、「もう合楽では、そこを願う以外なかばい」ちね。それを目指して、信心の修行させてもらわなんというて申しましたことでございます。限りがない、この修行にはね。それでいて楽しうなる。有難うなる。愉快にさえなってくる。と言うて放任は出来ない。いつも絶えず、言うなら修行という心は持っとかなきゃならん。また、はあこれが修行だと実感の出来る修行でなからなければ、また修行の後には自分の心の中にですね。修行しただけのものを心に感ずる。また形のおかげの上にもそれが表われくるようなね、修行でなからなければいけませんね。
昨日、紀久男先生が、もう今月という今月はもういよいよ和楽路ばきでいこうと、もう日々が生々としたね、神様がもう身近にね、ついて回っておられるような感じで、毎日の修行さして、これは二三日前でしたか、土居の共励会におかげを頂いた。本当に、まあ神乍らな共励会だったが、いつも見える方が見えてなかった。たとえば上滝さんだとか、大和さんが何か用で見えられなかった。ただ今村先生のお母さんと、そこの高芝さんとが、いつも見えない方が見えておって、やっぱり集まったのは十三名でした。
そして最後におせんべいか何かのお茶うけが出たらしいですけども、私のだけが…何じやったか、…座りかぶの絵がついとったげな、もうあのお道の先生方のが、すわりかぶを頂くという事は、もう最高ですもんね。「お道の教師とすわりかぶは、すわりの良いのがよしとする」というような御理解を頂いた事があるんですね。
たとえば、なら、共励会、共励をするだけではなくて、もう末永紀久男に神様がついてまわっておられるようなものをそこに感ずるところにもう、そりゃ早く寝たほうが楽かも知れん。けれども、そこに共励に行って、そこで神様を身近に感ずる。その働きがそこに、お茶菓子一つの中にでも表われてくるという行き方ね、そこに、まあ楽しいもの、そこにリズムを感ずるでしょうね。
神様にお知らせを頂いた、ウナギをこうかば焼きをする時のように、こう二つに、こうさいておるところを頂いた。結局皆さんがここで修行なさるのは、まあ言うならば合楽の私の信心を目指すことだろうと思うんです。親先生が頂いておられるようなものを頂こう。言うならば合楽で表われておる天衣無縫のおかげの世界に住みたい。焦点がはっきりしてくるね。
それにはね、ただ頂きたいと、まあしだごだな修行させて頂いて頂けるはずはありませんね。まずは和楽の世界に住みたい。為には和楽路ばきの一生懸命の信心に取り組む。そこに生き生きとした神様の働きを身近に感ずることが出来る。
もう、これは昔でしたけれども、久留米の佐田さんが私のことについてお知らせを頂いた。当時は椛目だったかな、の大坪先生の御信心は丁度ひょうたんなまずのようなものだと。つかみ所がない。皆さんもそうでしょ、私をつかみ所がないようなところがあるですもんね。うなぎがそうですね。なかなか素人ではつかめません。けれどもね、ギュッとこうつかむコツがあるわけですね。私うなぎをつかまえたことがないけん知らんけど、まあどじょうなんかは、子供の時にね、頭んところをギュッとこうしめると、もう動きらんです。うなぎでも、そうじゃろと思うです、ヌルヌルしとるからなかなかつかめんけれども、ここをという所をパッとこうつかんだらつかまえれる。
末永先生が先月の信心修行は私の信心をピシッとこうつかまえたという感じがしますね。もうこれをかば焼きにして頂くばっかりといったようなおかげを感じますね。親先生の信心はなかなかつかみどころがない。ただそのつかみどころといったものをです。親先生の信心はここだ、これだというところを一つ把握してつかんで、そしてそれに向かって信心の修行をね、しかも楽しゅう、有難う、学者が眼鏡をかけてでも、年をとってでも本を読むような修行を本気でさせて頂きたい。
それにはまず、まず教祖金光大神が言っとられる、「生神を目指して」ということなんですけども。それを手前のところで頂きとめる為には、ならここでは私が頂いておる信心を皆さんが、親先生の信心はこれだとね。昨夜もその話がでましたけれどもね、佐田恵介先生が今年が満二十一才の誕生を迎えたばっかりの、いうなら若い先生がですね。もう本気で合楽の信心の芯どころというものをつかまえた。いわゆる成り行きを尊ぶとか、大切にするということの中からですね。たとえ自分の目の前に、おごちそうが出ておっても、そこにお箸がなかった。はあ、これは神様がまだ許されんのだなという頂き方。
昨日の朝の御理解などを頂いておられて、もう、とにかく無法図もない大きな信心というものを皆さん感じられただろうと思うけども、そういう無法図もない大きな信心ですけれども、その根底になる信心修行ということがですね。
昨日も研修の時にそのことを話した事でしたけれども、いつでしたか、「耳かきの、ありて借りけり日向ぼこ」という御理解を頂いたことがありますね。自分の気持ちのよいことを自分から求めてするのじゃない。丁度ね、お縁で冬の日ざしの中で、でしょう。日向ぼっこをしとったら、誰か使うたそこにたまたま耳かきがあった。いわゆる自分から求めて楽をしようじゃなくてね。そこに自然と、その働きの微妙な間をぬいながらね、それを自分の修行として頂いていく。
はあ今日はいっちょ映画など見げ行こか、今日は温泉なっと行こかというものじゃない。許されて映画見物であり、許されて、言うならば温泉行きであるね。決して映画を見てはならん。温泉なんか行っちゃならんと言うのじゃない。そこに、許されてという、そういう修行を、一つの自分の行き方の、行き調子の中にです。その調子を覚えると日々が楽しゅうなる。有難うなってくる。修行が有難くなってくる。
食べたいと思うたけれども、お箸を許されてない。「はあ、これはまだ食べるな」と神様が言いごさると。神の声をそこに聞くような。私はそういう修行が出来て、昨日あたりのような御理解を身につけて言かなきゃならん。だから、そういう大変な修行をおかげを頂く。そういうおかげを頂く為の修行なのですから。人間が人間らしく生きながらね、生神を目指すという程しの信心なのですからね。
ただ、金光教の信心はなかなか開けとると。楽だと。人間が人間らしゅう生きながら、お徳を受けていけれるんだというふうにだけ頂いたらいかん。その根底になる修行と言うものは、今申しますように、言うなら修行が身についていく。楽しさとか、喜ばしさを感じながらね。身に徳のついていくのを、自分で感じながらさしてもらう修行をね。成程、これなら一生が修行であってもね。楽しいものであり、有難いものである。
いよいよ、これがあの世にも、持って行けれるんだと思うたら、それこそ熊谷さんじゃないけれども、日々の信心の実験実証によって生れてくるその実証。「はあ、これがあの世に持っていけれるんだな」とこう思うと言われるね。そういう修行を、いよいよ身につけていかなきゃなりませんが。
私は、金光教の修行、いわゆる修行観と言うたら、この御教えぐらいそのものズバリにね。教えておられる御教えはないと思う。修行というものを苦しいもんだ。人の真似の出来んようなことをせんならんといったような、イメージですね、があるんです。
お互いの信心修行の中には、断食をしたり、水をかぶったりといったようなものが、すぐこう私共が頭にひらめいてくるですけども、そういうものでは、さらさらない。学者が眼鏡をかけても、本を読むような、年を取っても、というような修行。日々の信心がね、自分の血に肉になっていっとるのが自分でも感じられる。もし、あの修行が苦しいばかりのものであったら、あなたのは修行じゃない。「そりゃ、あんたんとは苦労たい」ね。
おかげ頂かんなんから参りよるというようなものからは生れてこない。いよいよ、修行が身につく、そこに手応えのある修行を、いよいよさせて頂きたいと、思うですね。
どうぞ。